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2007年 08月 20日
「そっきょう」、、、即興とは?
実に特殊、トンでもない事! それは誰にも不可能! で特別な能力!で、、、と誰でも思ってる。 出来ないと思われている。 自分でも絶対的に、そう信じて疑いも なくそう思って来た! そんな事は決して、決して、不可能、、、、絶対 不可能だと! そう思って来た!! 其の意味は人様に聴かせる故の上手でないと! 恥ずかしいと言う概念だろう。 全ての事は最終は一対一の関係だろう。でも、そこで どうしても他人の目のを気にしてしまう。 これは当然、この世に生まれてから、、、イヤ生まれる以前からハードは自他を厳密に免疫の作用として。働いて来た。母親に対し胎児も同じ自他を厳密に分けている。 母親からすればハード的には胎児は寄生虫の様だ。 それが生まれここから自他を厳密に育まれる事で故に、そこには必然として故の頑強な自己と言う自分と言う者が作られる 自然発生的に日々の刺激が多分作るんだろう。 これは思い込みの最たる姿に思う。疑いも無くこのハードは自分の物としての思い込みは完成しそれを絶えず認識し意識ではその事さえ感じないほど自己の体と思い込む様に思う。 それ迄には3年と言う長い育みが必要という事。思い込みが完成するにはやはり時間が掛かる。 其処には他人が入り込む余地は一切なし! 自分の記憶との対話に思う。(其処には不安と言う要因が全ての根源にも思う。) その概念を吹き飛ばすと、、、、とそこまでは誰でも思う事。 様はこれがなかなか出来ない。 これを吹き飛ばせると言う事。それにはエネルギーの蓄積が必要。偶然にはそうならない様にも感じる。、、、、 さて、、、即興に戻ろう。 でも、それは案外そうじゃなかった。 実は終わる方が遥かに難しいと言う事を知った。未だに無理。 生意気に聞えるがそれが当然の如く。 上手に出来ると言う事ではないのです。 でも嫌気がさし、やる気が起こらないのでは意味がない。 それは実に楽しいと言う事。だから一年も継続出来たと思う。 但し 人様に聴かせるレベルではない。と言う事。あくまでも自己満足です。 でもこれは、ド素人に唯一許される特権でもあると思うのです。 それは誰でも可能だと言える事。意識せず誰でもそれを実はやっている。 即興とはマサに誰でも日々やっている。(即興の秘密を読んで見てクダサイ。) 但しこの自己満足が何処迄継続するのか? です。 現在これが醒めない事を祈るだけです。 こうなった、事は 自分でも思いもしなかった、生まれてはじめての体験です。 経過をあの「失われた書を求めて」に、発触され。 これは詳しく書く事で(ココロの動きを詳細に其の経過を記録する事で。) 其の即興と言う行為の中から、その、なぜそう思うのか?と言う様なその原因を引きずり出す事が出来ないかと思えたのです。 キッカケは、、、 即興の秘密 に出会い素直に納得!出来た。でもそれがそうリャそうだ!と思えても、、、 さて? こうは行くかな? ノダゴローさん ありがとう 合掌 ★でも何がそうさせたのか?それはそう簡単に訪れたのではない。 今だからこそ! そう思えたと言う事です。 (掃除していても数十年前のピアノのパンフレットが出て来る) 其処には必然として ウン十年の聴くという醸熟期間が必要だった。 最大の原因は思うに、あらゆるジャンルの曲を数多く聴く事でそれは徐々にシンプルを求める様になり,最終ソロに落ち着いた。そうして其処には「マイナーの秘密」に触れる様になった。 シンプルにはそこには誕生と終焉が一ッとして存在すると言う事。 (但し何でも同じであるが そう言う事が表面化し易いだけの事だろう。 カラーよりもモノクロに魅了される事と類似した事だろう。) 今迄飽きずに継続出来た最大の理由は 「実に楽しい」と言う、実に当たり前な理由です。 良く「ピアノを楽しく学ぶには?」など言われますが、、、、、 そんな事考える事もないと言う事。これも逆。 文句無く楽しい故そんな事思いもしないと言う事。 その「実に楽しい」をもう少し言うと 弾いた、一音が実にゆっくり減衰している様を聴きそこに、綺麗さと、一抹の哀れさを聴くマサに 「一音が音楽に」なっていると「感じる」故の事だろうと思う。 それは具体的にはピアノの一音で「鳥肌が立つ」立ったと言う事に、これには自分でも驚いた。 其処には理屈も何もない。意識の及ばない事。 あるのは結果として一瞬でココロがキューンとなる事象があると言うだけその理由はわからない。其の様に感動すると言う事。 そこを良く考えれば、、、、 物音がない真夜中 「一音が実にゆっくり減衰している様を聴きそこに、綺麗さと、一抹の哀れさを聴く」 マサにこの時に鳥肌が立つと言う事。 マサにココに生と死が一つとして存在する、嬉しさ哀れさがある。 一つと同じ音は出ないそこに言うに言えない哀れさを感じるのであろうか? あの CD 「現代日本ピアノ音楽の諸相」(1973−83) からもそれは感じる。 そう! 一音が音楽に思えると言う事は、、、、、 となると、どうだろう。そう自己満足なら何でもありと思えると言う事。 特に冬の寒い夜中のこの一音にはホントココロに響く、、音楽以外に繋がっている様な気さえ感じる。 特に、それは、音にはない。間にある様に感じる。 音と音の間に沸き上るココロのウネリ、たかぶりに、それは感じる。マサに其の時あの陶酔の唸りとして表面化する。逆に軽快なリズムにはそれは全く感じない其処には何もそれは感じない。 そのリズムは早くはダメでヒトの鼓動に近いゆっくりとした生命のリズムが良い。 でもこの現代音楽の中にはそれがある。それは素朴な民族音楽の中にも感じる。 『Spirits』 多分キースもこれを目指しているのではないか?と思う。だからクラシック、JAZZからは外れ枠のない世界の音楽に当然入って行くジャンルなど意味のない事だ。元は同じ一つの感性しかない。それが磨かれると言う事。今の世の様に数を誇る事など眼中にないでしょう。 其処には自他の概念すら消滅する至高の世界。マサにエクスタシーの世界。 これの感性の可能性開拓に日々奔走に感じる。それが切磋琢磨の姿だろう。 だから生みの苦しみが見て取れる。 音楽を聴かないで見ると苦しみの姿しか見えない。 理解されない人はもっと解り易い曲を、、、もっと楽しく出来ないの、、、こちら迄暗くなる。 お金を払ってまで苦痛を味わいたくないとなるんだろうな。 だから、スタンダードナンバーは出てこない、出てもアンコールに少しだけだろう。 でも心配ない。何れCDで出て来る、それを又何回も聴く事が出来るんだ。 そして聴いているうちに、其の事が理解出来る様に感性は磨かれるとそうなるんです。 理解出来ないのは喜ばしい事なんです。まだ可能性があるって事ですよ。 其れに比べ最悪は、其のリズムが聴く前に自分の中で先に走る場合ですね。 それでも飽きない曲はマサに良い曲ですね。但しそれは貴方だけがそう思う事。 それで良いのです。音楽も一対一の関係ですから。 唯一誤解を楽しめるモノです音楽も。 但し、自己満足と言うレベル、それは当然独りよがりと言う事。 でも、これは許されない事なのか? と、、、、、そう感じる。 教育とは恐ろしい だから。思うに今だからこそ! 多分そう思えたのだろう。其処迄には長い年月が必要だったんだろう。 そう言えばありとあらゆるリズムを聴いて来た、それが溢れる如く満杯になった様な気がする。 でもだからと言って、当然鮮明なリズムが浮かぶわけじゃない。其処には 何もない。 花粉症と同じ様な発症の仕方に思う。(ある入れ物が満杯になり発病する) 今迄それが出来なかったのは。 大きな原因は「そうでないとイケナイ」とそう信じて疑いもしなかった。 大きな原因はここでも! 概念が邪魔をしていた様に思うと言う事。 キッカケはNETでの出会で背中を押された様な感覚これが大きい様に思う。 そして店で思い切って「黒鍵だけで」弾いてみた! OH---- 曲になっているでは? と鳥肌である。 (今迄そこまでは思えなかった。 と言うのは、マズ恥ずかしくて ! 当然思い切って弾く事など出来なかった。) これが大きなキッカケとして日々頭にこびり付く様になり。遂に狂ったのです。 それは、特殊な能力を持ちえたヒトのみに許された事なのか?多分そう思われている様に感じる。 故 誰もあえて試みないのかも知れない。 でもそれはこれで飯を食うヒトの場合の事!おかしな事は命取りになるという事。 実はそれが! 我々 ド素人には許されている、何でもありでも良いだろう。そう思う。 但し、自己が満足だと言うのなら。と言う事である。 ヒトはこれを嫌うと言う事。でも気にする必要はない。音楽は正に一体一の関係です。 唯一、恐れはそれが醒めない事を祈るだけ。でもそうは行かない。 醒めるとは、、、、、、(全ての事に訪れる洗練される、必然と言う経過の流れだろう。) 極単純に、やっていても面白くなくなると言う事。ここにも理屈も何もなくそうなる。 これはどうして、やって来るのか? まず、イメージの枯渇と言う喪失サイクルに入るとのだろうか? これが加速される。ココに至る経過は実に非情だ。 弾く時でも何かリズムがあるのかと言うと正に何もない。 全くの白紙である。こう弾こうなどと言う事など何もない。あのキースが正にそうだと、、、、、演奏開場に行きピアノの前に座り一音を弾く迄ホント何もない。 マサにこれは良くわかる。 私も、そう何も知らないのですから当然です。あるのは吐き出したいとの思いだけ。 でもこの事がマズ理解されない。多分絶対理解されないだろうな。 でも何も知らない故ワカルとはこの事だろうか? 知識のあるヒトの方が理解出来ないのかも知れないを大きく感じる。 、、、、、、、、、、、 なら何時それが始まるのか? 適当に弾いた一音がマズ響きそれが染み渡る様に広がり減衰して行く様に鳥肌を立て、ひと呼吸おいてその瞬間に次の音を決める。と言う事。そこには右は高い音左は低い音と言うハッキリした物理が牛耳る世界。後は自然と手が動く様に 次から次へとまるで湧き出る如く高揚が胸の内に吹き上がる様に出て来ると言う事。この沸き上がる高揚感に合わせる音の高さを瞬時に選ぶと言う事。 思い付くままそれを音程としてまるで音を拾い上げる様な感覚である。 ココが最大の難関である。そう沸き上がる音程が出せない辛さと言う事。 そこは準物理の世界なんだ。様は和音の出し方が、知らないと言う事。 これは無限の組み合わせがありその気持ちを上手く表現出来る手の位置が わかればと言う事。コノ手のウチをイカに多く自分の物に出来ているか? でその曲は生きるも、死ぬもそこだろう。メロデーに幅を持たせると言うには この和音の秘密を是非とも必要だと言う事。 でもこれは、新たな次のステップへの スランプでもある。これが長いともう「やる気を失い」一気に崩落する。 そこには虚無感のみ残骸が残る。 でも全てが、この繰り返し、物事に必然と付いて来る試練と言う学びの姿 お試しの時なんだろう。でも実に苦しい、、、、、、 まず、漠然とした、モヤモヤとした思いそれはリズムと言う形で、、、出たがるのか? 何なのかかもさえ、わからない! まだ、何も形としては意識にさえしていない。 只、何らかのリズムを刻みたいと言う思いでもその旋律はそこには何もない! そして一音を「おろす」そして音の広がりを聴きその消え行く姿に哀れを感じそれは鳥肌と言う形でハットする。 この繰り返しをマサに聴くと言う事。 弾くという事はマサに聴くと言う事。 ワカッタ事、音の余韻と共に沸き上るエモーションが出て来るか全く出てこないかに掛かっている。 このエモーションの盛り上がりがユックリと徐々に上がって行くマサに脳内麻薬が溢れると言う事。 こう言う演奏が心地よい波長としてココロに響く、、、 其処にはマサに自分が弾いていると錯覚すると言う事だ。 Peter Serkin のベートベンOp、27、57を聴いてわかった。 即興もマサに一音が消え行く様を聴きそこにエモーションを瞬間沸き起こると言う事。 この一音が聴こえる迄は何もない。 マサに白紙 一旦始まればそれは、もう意識が半分以下の世界かな? 意識では、ただ弾きたいと言う思いだけの事。 次の瞬間にエモーションが湧くと言う事。 そこには理由など必要としない。意識しない方が良いと言う事。 指が勝手に動くと言う事。これが良く言われる まるで自分が弾いていないと言われる感覚と思う。でもこれは新しくひねり出すと言う事に対する必然的な事に思う。やはり意識すると上手く行かない。上手く弾いてやろうと思うからだろう。 但し すべて自己満足と言う世界。独りよがりと言う事。 これを皆誤解され、良くない事と理解されている様に思う。 それに酔うと言う事は実に楽しいと言う事。 でもこれを変に誤解されている様に感じるのです。 独りよがり、自分さえ良ければと、、、、、皆一番意味嫌う様な誤解だと思う。 そう、この生命も綺麗事で語られる事が大半だろう。 でも 生命維持には綺麗事では行かない、行くはずがない。他の生命を奪って成り立つ営みなはず。だから故感謝が必要だし精一杯生きるべきだろう。 でも既設の概念は 真意とは逆になってしまっている様に感じる。 この概念、跳ね返すといろんな可能性が見えて来ると言う事。 言わば即興もココが大きな意味に感じた。 最大の恐れはこの楽しみから飽きないと言う事。 でもそれは不可能 必然としてある事イカにそこを乗り切り次の段階に入るのかと言う事。 それには磨くと言う事しかないだろう。 言いたい事は既設の概念をはね除けると其処には 「可能性が花開く」という事。 マサに感性は無限の可能性を誰でも持ち合わせていると言う事。 イカに多くの概念に大きな意味も無く縛られているかと言う事。 その枠を作ればそこから出る事は不可能になると言う事。 だから そこを越えるには「鳥肌が」一つの目安だろうと思った。 それは自分でも理由が解らずそれはあるとき突然現れる。 マサに意識の及ばない領域での仕業だろう。 でもこれは、よく考えると 良く言われる神の啓示という様なモノでは決してないと感じる。 意識の及ばない故そう感じるだけの事。あくまでもこの体が感じているという事に過ぎないと思う。 この同じ思いがあの「失なわれた書を求めて」にも書いてあった。 それは 「しばしば作者がもたらす、「何かの力で書かされた」「私の力だけでは書けなかった」と言葉を神がかりの様に、、、、でもこの名状しがたい事実を指している。「書かされる」のは、未来を作り出す作者の日常だ。」 と書かれている。 マサに言いたい事は既設の概念をはね除けると其処には 「可能性が花開く」という事。 この自己が切り開くと言う事。でも其処から得られる事からの傲慢は許されない。
by tkz_s
| 2007-08-20 01:42
| 最近感じた事、、
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